文:進藤 龍也牧師

<心の見える国>に、その国一番の心の美しい女性がいました。その国の人が集まって若い女性の心を覗いてみると、傷のない生まれたばかりのような、それはそれは美しい心でした。





そこに、年老いた老婆がやってきました。

老婆は若い女性の心を覗くと、「何と美しい心でしょう。しかし、あなたの心より私の心の方がずっと美しくて、ずっと好きです。」と言いました。

若い女性は、「そんなに美しい心を持っているなら、お婆さんの心を見せてください。」と言って、老婆の心を覗きました。その心のあるところはえぐり取られた痕があり、またあるところは空いた穴に不完全な修理が施された痕がありました。

そのような心を見て、若い女性は、どうしてこんな痛々しい心が一番美しいというのか、また好きなのか尋ねました。

すると老婆はこう答えました。

「私の心のひび割れは、病む人の心を分かち合ってできたひび割れです。心の穴は、傷ついた人の心に、私の心を与えてできた痕です。ごつごつしているのは、私の心が傷つき裂かれたとき、友達が自分の心を塗ってくれた痕です。

えぐり取られた痕は、見返りの期待できないものに対して、愛を持って捧げてできた痕です。不完全な修理の痕は、私に対して愛を持って、身も心も捧げてくれた人の愛の痕です。そんな傷のいっぱい残る心が、私は好きなのです。

なぜならその傷痕は愛に他ならないからです。受けるのも愛ならば、与えるのも愛です。それを教えてくださったのは、愛そのものの神様であるイエス・キリストだったのです。

その言葉を聞いた若い女性は涙を流し、肩を震わせながら自分の心を引き裂きました。

その破れた心を、目の前の老婆は、自分の心をとり、若い女性の裂かれた心につなぎ合わせました。

その若い女性が引き裂いた自分の心は、悔い改めの心でした。こうして老婆を通し、イエス・キリストの愛を若い女性は知ることができました。知るだけでなく、同じように与える愛の人になりました。

与える愛には、時に不安が伴います。その不安とは、与える愛に対しての応答が返ってこないときがあるからです。

しかし本当の愛というのは、この老婆のように、見返りを求めない心なのです。

キリストの愛を知るまでは、与えるだけの愛を実践することはできません。

しかし、イエス・キリストの無条件の愛を体験した者は、与え続けることができるのです。なぜなら、与えても与えても、そこにイエス・キリストの愛が注がれ続けるからです。

だからこそ、老婆は傷痕の残る心を、イエス・キリストにあって好きだと言い表すことができたのです。

今、貴方の心はどのような状態でしょうか? イエス・キリストにあって与え続けても満たされ続ける愛を体験しませんか? イエス・キリストは貴方を招いています。